ネット時代の知識

たいていの人はルネッサンス・マンという用語を聴いたことがあるだろうと思う。ルネッサンス・マンとはスポーツ選手のような力、頭脳パワー、音楽の才能、街頭でのしたたかさや女性をまるめこむ方法など様々な広範囲にわたる才能を兼ね備えた人のことだが、ルネッサンス・ネットワークにアクセス可能な今となっては私たちにはもうルネッサンス・マンは必要がない。ルネッサンス・ネットワークは最近CIAのオープンソースセンターのニューメディア・アナリストにより生み出された言葉。なぜ普通に頭のいい人間がグローバルなルネッサンス・ネットワークを通じクラウドウィズダムを活用できる時にわざわざオフィスのキュービクルに一人の天才が必要なのかを問われている。同時にネットでキーボードをたたけばたちまちにして情報を得られる現在ではどれだけ知識があるかよりもどこに必要な情報があるのかという知識のありかについての知識が重要になってくる。ネット時代に必要な知識とは全能な物知りではなく、どこに必要な情報があるのかという知識のありかについてのメタ知識である。

Most have heard the term "Renaissance Man" – a person of many diverse talents like athletic prowess, intellectual power, musical ability, street smarts, and a way with the ladies. But we may not need them anymore, with access to "Renaissance Networks," a term recently coined by a new media analyst at CIA's Open Source Center. Why have a genius in a cubicle when a person who's merely "smart" can utilize global crowd wisdom?

http://mashable.com/2008/09/22/government-intelligence-renaissance-networks/

「知識のありかについての知識」というものがあるということを私はそのときに学んだ。そして、学者は「知識についての知識」へのアクセスの仕方を知っているという点において、「街の物知りおじさん」と差別化されているということも学んだ。しかるに現今ではどのような意味不明の片言隻句であろうとも、ネットでちゃかちゃかとキーボードを叩けば、その出典と意味をたちまちのうちに知ることができる。しかし、それによって「知識のありかについての知識」が不要になったのかと言えば、それはどうも違うような気がする。「知識のありかについての知識」というのは同時に「知識の価値評価にかかわる知識」でもあるからだ。どのような知識は知るに値し、どのような知識はそうではないかを弁別するのが「知識についての知識」である。

http://blog.tatsuru.com/2008/09/24_1730.php